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2017年11月27日 (月)

広告代理店への道

なぜ、ワタシが今の仕事をしているのか。
その入り口について語りたいと思う。

題して、「広告代理店への道」。

Dsc_2613
ここに1枚の古い写真がある。
額に入れられて引き延ばされた大判写真。
日付けは、1988年1月31日。

今となっては、永久保存版の写真だね!


昭和63年の写真だ。

確か、当時は大学3年生。
群馬県の高崎経済大学で学び、
アルバイト先のディスコ「ラールカーナ」
での1枚。

なんでこの記念写真を撮影したかは不明だが、
中央でレコードを掲げているのが
ワタシだ(笑)。

もう、29年前になるんだなあ〜


この写真の元になる記憶をたどろう。


恵庭市から、
5%枠という狭き門(?)を突破して入ったのは、
札幌東高校。

入学してレベルの違いにおののいた。
1年生の最初の試験で、
450人中、425番だったことは、
いまも脳裏に焼き付いている。

成績は最低レベルから、なんとか
学年100番くらいに上がったような気がする。

親から「国公立にしてくれ・・・」ということで
1浪。
代ゼミに通った。

で、浪人後にも第1志望には不合格。
日本の首都・東京に行きたい!と
思っていたこともあり、
合格できた高崎の大学に行くことにした。


行ってみると、
一人暮らしの大学生活は、
想像を超える楽しさがあった。
授業、体育会スキー部、アルバイトと、
ほんと、目も回るくらい充実していた。

お金はなかったが、
見るもの、体験するもの、すべてが新しく、
刺激的でエキサイティングな時間だった。

仕送りを補うために、
いろんなアルバイトをした。
そのほとんどが、
所属する体育会スキー部の先輩や仲間からのつながりだった。

家庭教師や、駐車場係り、
居酒屋やディスコで働いた。

当時の日本は、バブル経済の真っ只中。
センス片手に踊る、あのバブル絶頂期の世の中。
高崎の中堅都市にも、そのような箱があり、
そこで、照明係りやレコードを回すDJの
まねごとのようなことを
させていただいていた。

この経験が、
ワタシの職業を決定づけた
ように思う。

それは、
DJや照明係りの想いによって、
ホールの観客が動いていく快感を味わってしまったのだ。

ホールはいつも、盛り上がりをつくっているわけではない。
盛り下がりの時間をはさみ、
メリハリをつけている。

それに、反応してくれることが、
うれしかった・・・


大学4年生になった。
初夏ぐらいから就職活動期に入った。

友人の多くは、銀行・証券・商社に公務員。
いわゆる、固いところを志望していた。

しかし、ワタシはなんだか、気がむかない。
お金とか、モノには興味がなかった。
消去法で残ったのが、マスコミ業界だった。

正確に白状すれば、
同期の中で、最初に「内定」がもらえたのがワタシだった。
外資系の製薬会社だった。
その会社には大変申し訳ないが、
受けてみるだけの、練習だった。

その後、当時のニトリさんの会社説明会が学校であった。
北海道企業ということで、聞きにいった。
担当者の方と、どういういきさつだっかは忘れたが、
「カタログを作るようなことをしたい・・・」と言ったところ、

「そういったものはウチでは作っていなく、
広告代理店に外注しているんです」ということを知った。

この時、初めて、広告会社という存在を知った。
(笑)


就職活動は、その後、
道内のテレビ局や、印刷大手を受けるものの、
どこも内定をいただけない。


あせっていた。


そんな折り、
昭和天皇の崩御の話題が、
年末に語られることがあった。

いわく、
「もう年末には天皇は亡くなっているのだが、
国内の混乱をさけるために、
電通という広告業界最王手の会社がしきって
発表を年明け、1月に用意している・・・」と。


そうなんだ!・・・


そんな、都市伝説のような話しを、
何もしらない田舎の学生が信じてしまった。

「世の中をしきって、動かしているのは、
実は、広告代理店なんだ!」と。


思えば、子どものころから、
ラジオや、雑誌、新聞やテレビが
大好きだった。

ニュースやイベントに関心があり、
何かが起きれば、やじ馬として、
いてもいられない、体質だった。



けれど、
大手広告会社には、縁がなかった・・・


就職浪人をしようと、
卒業しない道を選ぼうしていたところに、
うっかり、卒業をしてしまっていた。

大学の卒業式に出て、
住んでいたアパートをひきはらい、
クラブの仲間と涙ながらの別れをした後、
フェリーで地元・北海道に帰ってきた。

この時、4年間の学費と仕送りを送ってくれていた
親は、どう思ったのだろうか。

自分が今、大学生の子を持つ親になって初めて、
バカ息子だったことを思い知って、
汗がでる・・・

でも、その当時は意気揚々と、
自分の可能性が開けると信じていた。



平成元年、4月。


同期のみんなが、大企業で研修を受けているさなか、
ワタシの北海道での就職活動・第2ラウンドが始まった。

最初にコンタクトをとったのは、
「パブリックセンター」だった。

電話の相手は、剣もほろろ、
「来年エントリーしてください〜」と。
そりゃ、そうだろうなあ。

次にアタックしたのは、
「ピーアールセンター」。

何が響いたのか分らないが
「面接いたしましょう」
と。

どんなことを語ったか、まったく憶えていないが、
当時の人事部長と社長面接を経て、
「GW明けから来てくれ」


このひと言で、
ワタシの社会人人生がスタートした。


今となっては、
当時の田丸社長のひと言が
ありがたいそのものだった。





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